2025年03月25日
2024小笠原組に寄せて【監督】
小笠原組は選手10名、マネージャー2名。
選手は1年8月と10月に1名ずつ加入して今の人数になった。
大変な大雪の影響を受けた2022年1月。臨時休校や交通障害が起きる大変な事態だった。暦上は冬が明ける4月にも札幌市内にはたくさんの雪が残った。そんな春に彼らは入学した。学校の協力を得て重機で雪をどけてもらったがグラウンド全面を使えるようになったのは入学式以降だった。さらにコロナの影響を残す中での入学。改めてブログを見返すとみんなマスク。本校ではようやく練習中のマスク強いられなくなったらて頃だ。
どの部もこの閉塞感を脱したいから仲間を欲するので勧誘にも力が入る。しかし、その思いは足の引っ張り合いの様相に発展し、高校からの競技開始のラグビーは勧誘戦線では苦戦を強いられたのを記憶している。
春休みから練習に参加していた幹太朗以外はみんな悩んだり保護者の方々との入念な相談の末に入部を決意してくれた。
先日の卒部式ではとても立派に後輩たちに訓示を残してくれたが、当然ながら各部員が悩みや苦しみがなかったわけではない。感染症とその対策や社会現象に翻弄される激動の中学後半から高校前半を経て、歪まずまっすぐたくましく成長した12名を誇りに思う。
〇近藤 巧

1年8月に入部。愛されるこんちゃん。ミルクティーとお菓子、プロスピ、ソフトバンクホークスを愛し、愛された男。不器用でも懸命に練習した。腰痛を抱えながら最後までやり切った。
炭酸、ミルクティー、お菓子をこよなく愛する芸達者で大柄の優しい少年は、1年途中に写真部からラグビー部に転部してきた。厚別ラグビー部のエンターテイナー「こんちゃん」として確固たるポジションを確立した。こんちゃんのお家芸となった「コーラ一気飲み後に地下鉄駅全部言う」はチームのSNSで7万8千再生、760いいねをマークした。3年次ではラグビー部の枠を超えて学校祭の司会をする厚別高校を代表する生徒に成長した。監督はラグビー部から行事の中心や生徒会長をするような全校生徒に良い影響を与える存在の生徒が出てきて欲しいと願っていたので、とても嬉しかった。怪我もあってスタメンでのスタートは少なかったが、全校行事で主たる役割を担い力を発揮したこんちゃんが、ラグビー部の歴史において大きな足跡を残したことは言うまでもない。彼の姿を見て自分もそんな活動がしたいという2年生たちが出てきた。
でも、こんちゃん。スタメンで試合に出たかったのはよく分かってたよ。社会人やOBが来ると必ずコンタクトプレーやタックルについて質問しに行き何とか良くなろうと努力していたのを監督は見ていた。ウエイトの測定値の伸びは歴代OBの中でも第3位!(ベンチプレス30kg→90kgなど)腰痛がなければ、もっと激しいプレーヤーになっていたと確信しています。笑顔と努力、ホークス愛。今後も仲間に愛され、人に囲まれる近ちゃんらしい人生になりますように!
〇角田琉晟

1年10月に吹奏楽からの転部。今や本人もネタにしているが、入部してすぐの函館遠征の大遅刻は彼を語る上で欠かせないエピソードになった。早朝、学校に集合してみると角田がいない。当時の島崎主将が何度も電話をかけている姿が忘れられない。島崎があんなに焦っているのは見たことがないくらいだ。そんな感じのスタートは、やはり後に響き、戸惑いを助長してやや出遅れた。少しずつたくましくなって顔つきが変わってラガーマンらしくなったのは2年の冬。低く鋭いタックルを見舞う良い選手に変化していた。花園での試合にも出場して楽しそうにプレーしていた。順調な最終年次を迎える予定だったが、春、全道大会前に復帰できるかどうかの怪我を負った。伸び盛りのタイミングの怪我で本人の落胆は大きかった。リハビリを頑張るも思うように回復せず苛立ったり落ち込むこともあった。たくさん話しましたね。しかし、同期の仲間や後輩に囲まれいつも最後には必ず立ち上がった。相手チームの分析をして仲間に動画などで配信したり、チームの為に頑張ってくれた。そんな不屈の男は全道大会の途中から出場し、走り回った。
途中でWTBからFLにコンバートされて、思い切りのよいコンタクトやタックルでチームを元気づけた角田。いつも後輩を可愛がる(可愛がられ?)角田。引退してから怪我が全快してすこぶる好調で今が伸び盛りの角田。
みんなと一緒にスタートから出たかった思いを胸に抑え込んで、仲間のための言動をとり続けた。なかなか出来ることじゃないです。そんな角田の存在はこのチームにとってはとても大きかった。
〇高島理功


陸上部に入って長距離をやります。そう言っていたサッカー上がりの少年を必死に口説いたら、ラグビー部に入部してくれた。もしかしたら本人はサッカーの経験とキック力、持久力を活かして華麗に颯爽と走り回るBKになるつもりだったかもしれない。しかし、ハンドリングエラーやキックキャッチのミスが目立つようになり彼が持つ良さが隠れだした時に、ポジション変更を打診した。それを前向きに受け止めFWへ。中学の先輩のケントを目指すと公言したが、ひたむきに頑張り続けて気づいたら、無尽蔵の体力とひたむきさを武器にタックルとリンクプレーに優れる「チームマン」のFLになった。思い返すとラグビーを始めて3ケ月、BKで出場した月寒でのデビュー戦。右サイドを突破する相手選手にカバーDFで追いつきタックルしてピンチを救ったのはリクだった。チームのためにひた走る素質を1年7月にすでに見せていたのだ。
定期考査の時にいつも「テスト〇日目の〇時からウエイトしたいです」と申し出てたゆまぬ努力を続け、ウエイトの測定値の伸びは歴代2位!上半身項目の合計値では歴代10位をマークした。リクが明るく盛り上げチャレンジさせてくれる上にリク自身が誰よりもハードにトレーニングする彼のウエイトチームはみんな測定値が良く伸びた。小柄でタフなFLに必ず付いてくるエピソードを兼ね備えた立派なラガーマンになった。
自分が頑張る、そして回りも頑張らせられる影響力がある、そんなナイスガイに成長した。今後もラグビーに関わって欲しくなる様ないい男になったな!
〇角矢之音


祥永と一緒に見学に来て、一緒に入部を決めてくれた。部活経験はないものの明るくエネルギッシュな性格に仲間は励まされていた。さあ、これからさらに伸びるぞという1年冬に選手から「学生コーチ」に立場を変えた。無念だったと思うが、部活動を続けて仲間と共に歩むことを選んでくれて嬉しかった。学生コーチと言いながらもグラウンドでのコンタクトのない練習やウエイトトレーニングなどには参加し続けた。入部当初は50kgに満たないようなきゃしゃな体は筋肉質で均整の取れた素晴らしい体になり、ウエイトの測定値の伸びは歴代10位になった。
仲間のナイスプレーにも大きな声、自分がナイスプレーしても大きな声、もちろん自分がミスをしても大きな声、彼がいるところは元気な声と明るさに満ちていた。竹内コーチの手ほどきのおかげで練習前のアップルーティンやゲーム前のルーティンなどは彼が仕切った。持ち前の明るさと元気な声で選手をリードする姿は理想的なものだったと思う。自分はプレーしたい気持ちを抑えてチームの中にポジションを作り、明確に役割を果たす彼は本当に素晴らしい生徒だった。
そんな彼が花園ラグビー場での試合で試合終了前にピッチに送り出された時、仲間たちは涙を流して喜んで迎え入れた。また、小笠原組での花園道予選、札幌山の手戦。敗戦濃厚となった試合終了前にシオンをピッチに送り出した。勝負に徹していない甘い指揮官だと思われるかもしれないが小笠原組の選手全員にグラウンド内で高校ラグビーのノーサイドの笛を聞かせてやりたかった。
シオン、ラグビー部を選んで、そして続けてくれてありがとう。優しさと明るさを活かして人々を助ける素晴らしい人になってくれよ!
〇遠藤常光


177cm60kg、長身細身でメガネの新入生は、何度も見学と体験に来てくれるがなかなか入部の決意を見せてくれなかった。踏ん切り付かないまま部結成の日を迎えてしまうのではないかと思っていたが、滑り込みで入部を決めてくれた。それがトキミツだった。
スタッフから見て彼の転機となったのは1年10月の函館遠征。函館ラ・サールに劣勢を強いられる中で何とかトライライン目前でこらえた右サイドでのラック。走り込んできた函館ラ・サールのFW選手に相対したのはトキミツだった。タックルの体裁もなく弾き飛ばされ簡単にトライを許した。翌朝のモーニングセッションで体操や動きの確認後にホテルに戻る時に私と四郎先生に挟まれて「気づく機会が人を変える。これは成長のチャンス。悔しさは次に返そう」的なこと話した記憶があります。その後、トキミツはプレーでも存在感が増し、特にラインアウトの主軸に成長し、2年間厚別の制空権はトキミツが握った。小笠原組になってからはボールキャリーが増えるなどフィールドプレーでも強さを発揮した。島崎組の試合に出場していた2年FWはトキミツだけ。1年生が多くFWメンバーに入る新人戦ではかなり苦戦した。このFWを立て直すのはリーダーとしてかなり苦労があったと思う。得意としていたラインアウトはスローワーが育たずバリエーションが使えなくなり、耐える冬だった。
春以降はFWが強みを出せるようになり、その中心としてトキミツは躍動した。国体予選後には多くの大学関係者が彼と話したいと名乗り出てくれるなど高い評価を得るなど本当に良い選手になった!部内戦ではたまにやんちゃな一面も出てくるのはご愛敬。
本人は左足の長身ロングキッカーになる予定だったと話している。その可能性は監督として全力で否定するが、LO、FLとしては心からラグビーを続けて欲しい逸材!これからもやると決めたら前向きかつ強気な姿勢を忘れずに活躍してほしい!
〇島田昊

部決定まで残す日がないある日の放課後体験。ウエイトだった。それがシマとの出会い。何となく気になって話しかけた記憶がある。サッカー経験者、中学時代はキャプテン。でもサッカーを続けるかは微妙。私からラグビー部の話をして、今度はグラウンドで体験に来てよと誘った。サッカー部をもう一回見てから行きます。そんな会話だったよね?入部を決めてくれて本当によかった。素晴らしい選手になった。何より、その人間性がラグビー部にとって大切なものになった。明るくみんなに等しく優しい。仲間思いの良いリーダーになってくれた。彼を見込んでお願いしたことは数知れず。学校祭の司会もそうだ。彼なら全体の流れを読んで臨機応変に学校祭を盛り上げられると思った。生徒会執行部の面々もシマなら間違いないと言って歓迎した。
何かといじられるシマだったが、3年間で本当に強い男に成長した。司令塔として悩みながら成長し、花園の第1グラウンドでは自ら華麗に突破してトライをあげる活躍だった!トライもした、脱臼もした、独自のルーティンから繰り出すコンバージョンも決めた。花園第1グラウンド、しまにとって忘れられない場所になったのでは?キックとランが得意な攻撃的な選手だ。肩の怪我をするまではジャッカルも上手く要所でボールを奪う働きも見せてくれた。
卒業後はサッテツクラブのルーキーとなる。みんなに愛されるいじられリーダー。監督とも軽妙にトークが出来るバランス感覚を持つ。間違いなくクラブの皆さんに可愛がられるだろう。ひろコーチ、翼コーチに叱られてへこむのを松本コーチに慰められる姿が面白おかしく思い浮かぶ。そして、その様子を嬉しそうに連絡してくれるのぞみコーチの姿まで目に浮かぶ。色んな人に愛されながら、自分の道を進んでほしい!
〇寺田虎鉄

小笠原と一緒にグラウンドに来た色白で50kgあるかどうかの細い少年。でも走ったらとてつもなく速い。彼のスピードはとてつもない魅力が詰まっていた。デビュー戦となったU16札幌支部大会。グラウンド中盤の左サイドでボールを受けたコテは追いすがるDFをことごとく置き去りにしてライン際を駆け上がり、デビュー戦で鮮烈なトライを見せた。しかし、体づくりは進み良い仕上がりを見せる一方で思い切りのよいパフォーマンスが全く見られなくなる日も散見するようになった。彼の最大のライバルとなる緊張だ。緊張しがちな彼はその弱点克服にも課題意識を持ち何とかしようとしていたのが印象深い。ラグビー未経験者の同期の中ではコテが一番多く試合に出た。場数を踏んで自信を持ち緊張しぃを克服して欲しかった。他の選手が持っていない稀有なスピード!その素晴らしいスピードを生かしてトライゲッターとして開花することが自信につながり緊張の緩和につながればと考えたのだ。また右足から繰り出される低く速い弾道のロングキックは貴重な武器だと思われるほどのものに成長した。一生懸命に体を鍛えたことによる成長の証で、スピードに加わるもう一つの武器になった。
3年夏は肉離れで思うようにプレー出来ずに焦りを覚えた時期もあった。合宿では仲間に担がれてグラウンドを周回して打ち上げた。仲間に愛され、支えられ、自分の武器で勝負したトライゲッター。
卒業後はサッテツクラブでラグビーを楽しむ決断をした。緊張や不安と関係ないエンジョイラグビーの中でまた素晴らしいランニングとトライを見せて欲しい!
コテ、楽しめ!
〇小笠原空良


入学時156cm、49kg。
お父さん、お母さん、彼がラグビーをしたいという申し出を拒まずご了承いただき本当にありがとうございます。おかげで、札幌厚別高校が北海道に誇る素晴らしい選手が生まれました。
3年間で少しずつ心身は大人になり、たくましさを増す。身長は8cm(156→164.5)、体重は19kg(49→68)増えて、40kgしか上げられなかったベンチプレスは115kgまで上げられるようになった。
小さいながら信じられないスピードで相手に接近し、そのスピードのまま低くなり相手を刈るタックルは本当にすごい。道外チームと試合をしても彼のDFとタックルは揺るがない成果を上げ続けた。北海道代表で全国の強豪に突き刺さる姿が見たかったが残念ながら選ばれなかった。彼はなんでもそつなくこなす選手ではない。苦手なプレーもある。しかし、圧倒的な武器を持ち、強く輝く個性を持つ選手だ。
放つ言葉も個性的で数々の名言・迷言を生み出した。キャプテンとしては言葉をうまく使おうとするが、周りはぴんと来ないこともしばしば。リーダーのタイプで言うとキングダムでは将軍・信だ。先頭に立ち体を張り死地に飛び込む。仲間が頑張るその先に小笠原がいる。そんな背中で引っ張る『小さな闘将』という形容がぴったりあてはまる選手だ。そして仲間思いで同期を大事にしている。優しくも厳しい先輩として後輩の指導も熱心だった。その頑張る姿勢に女子の石岡はよく逃げ出し、それを追いかける姿はトレーニングルームの名物となった。しかし、グランド外では忘れ物の常連でマネージャーに叱られ、教室では消しゴムをちぎって級友にぶつけて遊んで担任に叱られるなど人間臭く高校生らしい一面がある。
札幌厚別高校ラグビー部を心から愛し、大切にする立派なリーダーだった。
札幌大学に進学しラグビーを続ける。札幌大には岡本・梅本・木村といった実直で仕事人のOBたちが待っている。彼らと北海道の地から全国大学選手権出場を目指す。札幌大学の試合を見に行く楽しみがまた一つ増えた。
〇中村祥永

もう部活というものには入る気がないんですと後ろ向きなコメントを残していた少しぽっちゃりした優しそうな少年は、体験と部員たちの説得を受けて角矢と2人で入部してくれた。何としても部活動に真剣に取り組みながらも仲間と過ごす楽しい時間の素晴らしさなどを感じて欲しいと強く思ったのを今でも覚えている。彼が引退・卒部の時に部活に入って良かった、ラグビー部に入って良かったと話してくれて本当に嬉しかった。しかし彼の3年間は順風満帆ではなかった。大阪遠征を経て成長し、2年春にはAチームで出場することもあった。スタメン定着を視野に入れて臨んだ春季大会で、接点の攻防の中で鎖骨の骨折を負い離脱を余儀なくされた。一日でも早い復帰を目指して保存ではなく、手術して回復を目指した。結果的にその治療・リハビリ期間が彼の基礎を作った。毎日想像を絶する回数の自体重のスクワットを重ねた。追い込んで地面に突っ伏す姿は何度も見るようになった。努力を重ねた結果、彼の下半身は驚異の成長を遂げて、その成長がそのまま自分の自信につながっただろう。いつも笑顔で、チームがしんどい時も前向きな掛け声をかけ続けるような男に成長した。復帰して、小笠原組の代になってからはボールを持ち局面を破壊する役割も担った。近場のロータックルにはさらに鋭さを増した。ラグビーの旧き良き時代から語られる理想のFW像そのままのプレーヤーとなった。
70kgで入部した彼は92kgになった。この増量は歴代でもトップ!怪我で出遅れた上半身の測定値の伸びは歴代で11位となった。数値から見ても彼はとんでもない努力をやってのけた素晴らしい選手だったことがわかる。
チームの骨格・ど真ん中。常光と祥永がいなければFWの奮闘はなかった!これから時は優しくて力持ち、そんな君でいてほしい!
〇堀幹太朗

監督の長男。ラグビーがしたいという希望を持つなら学校は好きなところを選べばよいと思ったが、厚別高校を選んだ。学校にいれば生徒と教員。特別扱いはできないし、現に周りへの示しのために人一倍怒られた。「監督の息子だが、別扱いはしないでくれ。」当時の選手たちにそう伝えることから始まった。しかし、いきなり学校で私にため口で話しかけてド叱られた。入学して早々、自転車通学中に車と接触。車の不注意だが、生徒指導部長の息子が年度第1号の交通事故者となり複雑な思いだった笑 1年次のクラスTシャツの背中には「歩く災害」の文字。やれやれだ。
試合のメンバー選びは基本的にリーダー陣と相談して決めていたが、彼は結果的におそらく3年間ですべての公式戦に出場した。1年次ではトイメンの留学生に突き刺さって吠えた。2年次では縦突破でチームに貢献して吠えた。3年次ではジャッカルを決めた吠えた。仲間がナイスプレーをした時も吠えた。チームが苦しい時も吠えた。よく大きな声を出して自分や仲間を奮い立たせる行動をとっていた。優しいやつなのかもしれない。
選手としては基本的にはスピードと体の強さを生かして突破するタイプでポジションは複数に挑戦した。1年ではWTB、2年ではCTB、3年途中でNO8に転向。北海道代表に選ばれ佐賀国民スポーツ大会に参加させていただいた。そこではLO、NO8、CTB、WTBを任されることになったが試合にはFLで出場した。フロントローとSH以外はすべてやった。
トレーニングは好きなようで、ほぼすべての筋力測定で歴代トップとなり、合計値でも歴代トップとなった。立場にあぐらをかかず努力した証なのだと思う。
卒業を前に「厚別高校を選んでどうだった?」と聞いたことがある。「厚別高校で良かった。学校も楽しかったし、強豪私立に行ってたらラグビーは嫌いになってたかもしれない」と話した。そう思えたのは周りの仲間や先輩後輩、先生方が良くしてくれたからだ。本当に感謝している。
関東大学リーグの山梨学院大学に進学してラグビーを続ける。どんな成長をするのかポジションはどこになるのか見守りたいと思う。幹太朗、頑張れ。
〇MG 鈴木碧花 小沼雪乃



優しくてよく気がつく碧花さんは、本人は嫌だったかもしれませんが部員たちから「お母さん」と呼ばれましたね。それは碧花さんが優しさと芯のある素晴らしいMGだったという証拠です。
今思えば、一番最初に私に叱られたのは雪乃さんでしたね。入部してすぐでしたね。その考え方は「無責任なんじゃないか?」確かそう投げかけたと思う。3年間での変化は歴代MGで一番だと思います。
碧花さんと雪乃さんは、キャプテンを筆頭に幼稚でだらしない男子選手と奔放な女子選手をよく支えてくれました。先輩の敏腕MG達も日々の苦労を経て素晴らしいMGになりました。あなたたち二人もマネージャーとして日々悪戦苦闘する中で大きく成長しました。たくさんの先生方があなた達の変化に驚き、高く評価してくれました。体育の先生方は、授業の中でも気遣いを忘れず立ち振る舞う2人の姿を見て驚いていました。「彼女たちは授業でもマネージャーとしてサポートしてくれていたよ。」表面的に頑張っていたわけでなく、人を助けて支えることの意義を理解して努力をしていることに触れて本当に嬉しく思ったのを覚えています。
コロナが落ち着き、それと同時にラグビー部は活動を一気に加速させました。失った時間を取り戻すためには急激に変えるべきだと考えたからです。そして、それが生徒の成長やクラブの魅力になると考えたからです。道内外への遠征・合宿、数々のクラブ内イベント。それらを支えるのは至難の業です。慌ただしく次から次へ変化を求められる中で後れを取ることなく、先回りしてくれた碧花さん、雪乃さんには感謝しかありません。色んな苦労をしました。それでも笑顔で2人の強い結束で乗り越えてくれました。そんな彼女たちを花園第1グラウンドに立たせてあげられて本当に嬉しかったです。
慌ただしく駆け抜けた3年間でした。振り返ってみてください。碧花さん、雪乃さん、あなたたちは本当にすごいことをしていたのですよ。自分たちが残したブログを暇なときに読み返してみてください。そこに記された活動全てをあなた達が作り、支えたのです。
本当にお疲れさまでした。マネージャーになってくれてありがとう。新たな環境でも素晴らしい時間を過ごせるように祈っています!
改めて思い返すと、思い出がたくさんです。
コロナから立ち上がり変化する中でたくましく頑張った彼ら。いろんな表情を見せてくれました。



ラグビー部は楽しかったですか?
みんなと出会えて良かったです。



私は離任してしまいますが、皆さんの母校・ラグビー部は変わりません。
私はこれから皆さんとは“幹太朗の親父”として接することがあると思います笑



縁は一生。また会いましょう!
君たちの人生を応援しています!
札幌厚別高校ラグビー部 監督 堀智博